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1991.春 その3

ヒルトンインターナショナル、
小高いパレスのある正面ゲートから200m位だろうか、そこにそびえ建つアデイス一番のホテル。俺は五十嵐さんの紹介でそこに向かった。
うんうんうん、これこれこれ!こうでなくっちゃ夜は眠れない、、、
大きなシャンデリアがあるロビー、たいてい4つはあるエレベーター、客室はどこに入ってもピンとのりがきいた白いシーツにふかふかのブランケットとピロー、木目調のシックなデスクにしゃれたクローゼット、、、            
どこへ行ってもこんな定番のホ・テ・ルってやつに俺は泊っている。ヒルトンももれなくそんなやつ、、、でも、いいの?、、、
社会主義軍事政権のやつらが籠城し、それをエチオピア人民主義戦線の重戦車が包囲するパレス、いつ火花が散ってもおかしくない緊迫している場所から200mほどしかはなれていないホテル、言いようによってはこれから始まるドラマの特等席、、、
そんなヒルトンに入るにはパレス正面、道幅15mはあろうか広い町までつずくメインロードを通らなければならない。何にもない祭日の皇居のように車も人もいない閑散とした道をエチオピア人秘書の運転する大使館のジープで俺は走っていた。
あと50mほどでヒルトンホテルのゲートに着くあたり、正面、そこはパレスの大きなゲート、その周りのフェンスを囲むように包囲する重戦車、、、それは親父にガキのころよくつれていかれた自衛隊の演習訓練ではない!そんなライブが目の前に広がる、、、そこに俺はいる、、、馬鹿者、ワクワクドキドキ、、、不謹慎ながらも興奮しはじめている、、、
タッタッタッタッタッタッタ!銃声の音。それはパレスの方からだと言う事はすぐにわかった。それも俺たちのジープめがけて、、、音と周りの気配で感覚的にわかった。そのとたん運転手は急ブレーキを踏んだ。15mの幅のパレスに向かう道は平らに整備はされているが舗装はされてはいない、、、5,6mズリズリーとスリップしてジープは止まった。
後ろの席にいた俺はものすごい勢いで頭を前のシートにぶつけた。Fuck! What are they doing!!!そう叫ぶとあわてて運転手はあろうことかギアーをバックに入れ替えてそのまま真っ直ぐバックで走り始めた。ものすごいスピードで、、、ギアーボックスが壊れるほどに、、、
今度ははっきりと俺たちのジープめがけて撃ってくるのがわかった。タッタッタッタッタッタッタ、、、、、、、おいおいおい、マジかよ!うそだろ!何発か玉がジープに当たってる、、、
カン!カン!カン!とっさに後ろの席で頭を両手でかかえ足元のスペースにうずくまっている俺に運転手は叫んだ。フラッグ!フラッグ!フラッグ!えっなんだって?フラッグ?
もう会話にならない!フラッグ!フラッグ!フラッグ!、、、What!What!What!、、、
Uターンもせずに後ろ向きに必死に走る運転手、、、アッ!国旗だ!日の丸だ!日本大使館のジープ、、、必死で後ろの荷物置きの方に身を乗り出して国旗を探した。あった!なんだよこんなちっちゃな国旗は!、、、パニクっていた俺は自分がくるまれるほどの大きな日の丸を期待していた、、、よくオリンピックウイニングランで選手が両手で掲げるやつを、、、
たぶんこのジープの前のポールにつけるものだろう、、、そんな大きさ、、、
俺は言われるまでもなく窓を開けてその日の丸を片手で振った。
こんな時だと言うのにいろいろな事が頭をよぎる。あんまり手を出してて腕を打たれたらどうしよー?運転手が先に打たれたらどうしよー?ジープが横転する前にドアを開けて飛び出しブルースウイルスでもしてしまうのか?、、、俺は親指と人差し指で強くつまんで日の丸だけが外に出るようにして振っていた。もちろん仰向けに後ろの席に寝転んだままで、、、下から見えてる小さな日の丸は俺には、大きく、優しく、頼もしくさえ見えた。
日本人でよかった、、、
それまでよくオリンピックで日本人が表彰台に上がり掲げられた日の丸に涙している姿を見たり、その後のインタビューで(日本の日の丸に後押しされて、、、)なんて聞いても俺は
ほんとかよ?!なんてひそかに思っていた。
銃声はなりやんでいた、、、
この時ばかりは俺も初めて日の丸を見て、、、泣いていた、、、

1991.春 その2

ボンベイ国際空港、、、
ボンベイから飛び立つ便はたいてい夜中、この日もアデイス経由ナイロビ行きのエチオピア航空も12時すぎの便だった。5,6時間でアデイスに到着、、、アデイスの空はもう太陽でいっぱい、2時間くらいの空港待ちで飛び立ちナイロビへ、、、、のはずだった、、、
トランジットルーム、ほとんどはケニヤ人であろう、アフリカ系の人々、おでこを見ればすぐわかる。アデイスからは1人もこのトランジットルームに入って来る者はいない、、、
出発時刻を30分過ぎてもいっこうに搭乗する気配がない、まあ、こんな国はこんなもん、、、
すずしい顔して待っているほうが健康のためだ。そうこうしているうちにパタパタパタ!
Boarding panelの下の段が動いてDELAYの文字、(もしかして今日はナイロビに着くの無理かも、、、)そんな思いもまもなく、ものものしく軍服を着て銃をさげたやつらが数人バタバタ入ってきた。俺はどんな事情かがわかるすべもなかったが一瞬で(あー当分このアデイスを出れないなー)と言う思いが脳裏をよぎった。それより何より俺のショルダーバックには30万ドルほどの現金が、1000ドルずつ束ねて1万ドルずつ輪ゴムでとめて30束きれいに入っている、、、ヤバイ!!!肩にかけていたショルダーを俺は無意識に脇にしっかりかかえていた。あっと言う間にトランジットルームはそいつらに囲まれて列をつくらされ入国ゲートへと誘導された。もちろんショルダーは小脇にかかえて、、、いや、そんなに大切そうにかかえていては怪しまれる、、、そう思うといつものように肩にかけなおした。入国ゲートでの荷物検査がはじまった。いつものイミグレーションのやつらではなかった。銃を肩に背負ったエチオピア人民主義戦線のやつらだ。俺はこんな切羽詰った時、いつでもなんとかして切り抜けてきた。イスラエル、テラビブでダイヤを持ち出そうとしてつかまった時も、バンコクで10万ドル以上の現金を持ち込み申告しないで入国した際イミグレーションでとがめられた時も、、、なんとか必死に話して難を逃れていた。
この時も(大丈夫、大丈夫、なんとかなるから、、、)たかをくくっていた。
俺の番、やつは肩にかけているショルダーをガサツに取り上げチャックを開いた。そしてバックの底に手をもぐらせて、たやすく現金の束が入った茶封筒を取り出した。(なんだこれは!こんなBig Moneyはこの国には持ち込めないぞ!)ちょと勝手が違う、いつもならここで眉間にしわよせて(この国って、俺はトランジットで来ただけだろー!入国なんかしたかないんだよ!)くってかかるはず、、、だがやつらは銃を脇にかかえ数人こちらに銃口を向けている、たしかにいつもと違い殺気立っている。周りの奴らも異変にきずき集まってきた。ヤバイ!!!もめたりしたら、、、ものすごい危険と重圧に身がすくんだ。
何も言えない自分が情けなかった、、、
英語もしゃべれず現地の不良に絡まれて身をすくめている日本人観光客のようで情けなかった、、、それにまして消えてなくなろうとしている目の前にある30万ドルの現金、、、
それまであったショルダーバックの重さの数十倍が俺の肩に重くのしかかった。
パスポートまでも持っていかれた。
そのまま列をなして空港の外に出されるとそこにはエチオピア航空の赤いバスがまっていた。そのままバスは1時間ほど走っただろうか、街のホテルに着いた。その途中の道のりは車が1台も走っておらず寒々しく思えた。ここはアフリカ、エチオピア、アデイス、、、
アデイスは標高2600mのところにある都市、アフリカとはいえ20度位の気温で湿度がなく過ごしやすい、、、いつもならこんな空気をいっぱい吸いワクワクドキドキするのだろう、、、そんな場合ではない。ホテルは二つ星位のままりなりにもいいとは言えないホテル、俺は(こんなところでいつ帰れるかわからない夜を過ごすのか、、、)と思うと悲しくてしかたがなかった。それよりなによりボコタのアニンはどうなっちゃうの?日本においてきた美香は?、、、どうなるの、日本の会社は?!俺が最低でも来月には資金繰りしないとパンクしてしまう!、、、果てしない不安に占領された頭が先に悲鳴をあげてパンクしていた、、、
毎日、空港職員がホテルに来てホテルのアコモレーションバウチャーや食事チケットをくばっておぼつかない説明に追われている。そんな、霧でおおわれ前がかすんで見えるような1週間をこのホテルで過ごしていた。
そう、俺がちょうどアデイスに着いた時エチオピア人民主義戦線の手によって空港閉鎖されクーデターが起こっていたのだ。そしてこの1週間、水面下でロシア寄りの社会主義軍事政権とにらみ合いがつずいているのだ。その時、、、
ホテルに背広を着てネクタイを締めたこの国にはにつかわぬ日本人が俺を訪ねてきた。
嬉しかった、、、すごく、、、
(尾茂さんですか?私は日本大使館員の五十嵐といいます。ここは明日からちょっと危なくなるのでホテルを移りましょう!)そう言いながら名刺を差し出した。名刺には、日本大使館 2等書記官、、、とあった。彼は(大使および他の職員、それから日本人住人の方たちは1週間前までに国外退去しています。私一人とエチオピア人職員が大使館にのこり
情勢を見守っていたのですが、空港の知らせで到着した最後の便の搭乗者リストに日本人らしき名前があると聞き、まさか!と思ったのですがー、、、尾茂さんは新聞をお読みにならなかったのですか?)その言葉は俺の胸にぐさっと突き刺さった。これまで、仕事仕事で新聞などまったく興味がなく目にする事といえば外貨レートと地金の値段、社会覧や政治覧など見た事もなかった。俺は俺の生き方、、、社会や政治など蚊帳の外の出来事で関係なく思え、そんなうがった見方をしながらダイヤで天下を取るんだなんていきまいてた自分が汚く醜く小さく見える一瞬だった。まさに蚊帳の中、、、
その後に五十嵐さんは胸の内ポケットから赤いパスポートを取り出して(あっ!これ尾茂さんのパスポート。空港職員が渡してくれましたよ!)おいおい、それを先に言ってくれよ、五十嵐さん、、、さっきまで汚く醜く小さく見え反省していた自分なのに、、、赤い自分のパスポートが戻ってきた瞬間、胸にペンシルをあてたウルトラマンのようにすべてを忘れ俄然大きく成り上がってしまった。人間ちゃっかりしたもんだ。うかれついでに空港でパスポートと一緒にお金もとられてしまった事も言って助けてもらおうとしたが瞬間それはやめにした。言ったところでお金は戻ってこない事はわかっていた。それより新聞を読んでいなかった事を言われ傷ついていた俺が尚みじめに成り下がるのがいやだったから、、、
(こんな政情不安なアフリカを訪れるのに新聞も読まず、ましてや30万ドルなどの大金をキャッシュで持ちながらフラフラと、、、尾茂さんの責任ですよ!尾茂さんバカですよ!)
そんな声がフッと聞こえてきた、、、

1991.春

1991年、春。
俺はいつものようにボンベイ(現ムンバイ)オペラハウスにあるパンチラットナビルでダイヤの買い付けをしていた。シッピング業務も終え1階にあるいつもの旅行エージェントからのアフリカ、ザイール(現コンゴ)行きのチケットを手にして夕方から現れる屋台の一つからパ二プリを口にほうばっていた。
ここは世界各国からダイヤモンドバイヤーが集まるダイヤモンド業者だけと言っていいほどのビルデイングだ。
俺は1階から18階までの業者を朝から晩まで駆け上り毎月100万ドル位の買い物して日本にある会社へExportしていた。
日本の会社は小さいものではあったがジュエリーのコストを下げるため、デザイン、製作加工、販売を自社でおこない、一貫した体制を作っていた。加工職人を確保するため、成田、御徒町、甲府に工場をわけている、、、職人はすべて韓国人で厳しい日本の入国審査からビザを取るための試行錯誤の結果だった。
毎月100万ドルほどのダイヤの輸入、ダイヤの少しのコスト差、輸入レートの変動にも大きく左右されるので、そんな事にも目をくばり尚もダイヤのコストを下げるためラフダイヤ(原石)を買い付けるためザイールにしばしば飛んでいた。
今回はなぜか、ボンベイ>アデイス(アデイスアべバ)>ナイロビ>キンシャサ(ザイールの首都)のルート。いつもはロンドンかパリ、時にはアムスだったがとにかくヨーロッパにトランジットしてのアフリカ入りだった。少し時間の余裕がありナイロビで遊びたかったからだ。
ケニヤの首都ナイロビはケープタウンにつぎ近代化した町で、デイスコやカジノもあり夜も天国、そこでひろった女の子と南へ行けばアフリカのカリブ海と呼ばれるすばらしいモンバサが待っていた。ここで2,3日滞在し、7時間ほどでキンシャサに入る。
空港ではいつもバンバが待っていた。彼は俺の案内人けん通訳、ザイールは政情不安で揺れ動きとても一人ではジャングルに入るには危険だった。ましてや言葉もわからなければ話にならない、10を越す言語とフランス語、、、彼はそれらをあやつり現地のダイヤ業者や政府にも精通していたため俺は重宝して使っていた。
そのころのザイールはモブツ大統領の統制下で独裁政治とでも言うべくすべての外とのラインを切断していたため電話が一切、国内通話すらできなかった。電話をする時はビザをとり隣の国コンゴへコンゴ川を船で渡り、町にある郵便局から電話をしなくてはいけない、
まさに電話をするのも1日仕事。。。そんな国ザイールでそんな思いをしてまで買い付けをしたダイヤをインドへ送りカッテイングして日本に輸入しても十分うまみがあった。
だが俺は、いろんな国に住みついたりしたけどここはなぜか好きになれない、、、仕事のため好きになろうと思い女の子もトライした。俺も男、現地の女性と出遭う事はそれ以上に現地の民族性、言語、情報などをつかみ取る事が数十倍早いから、、、
ジャネットジャクソン似の18歳の子、スワン、、、
彼女は俺がキンシャサで定宿にしていた町のはずれにあるゲストハウスに毎朝顔を出しに来た。(明日からジャングルに入るから少し帰ってこないよ。)と言うとその晩は家に帰らない事がしばしばあった。俺は彼女が何をしているのか、家があるのか、親がいるのか、はけして聞かなかった、、、
早いとここの国から抜け出してアニンがいるボコタ(コロンビアの首都)に帰りたかったから、、、付き合って1年半ほどになるアニンとはボコタの中心、闘牛場がある15階建てのマンション、テケンダマの最上階ペントハウスに住んでいた。2、3週間で仕事を済ませ5月20日の俺の誕生日には間に合う、一緒にバースデイーをしようと約束してたから、、、そのための、ボンベイ>アデイス>ナイロビ>キンシャサ、そしてアムス>ボコタのルートだったのに、、、

出逢い オンド・マルトノ

初めてオンドマルトノの音色に出逢ってからもう8年がすぎてしまった。
その音色には出逢った時からピンと来るものがあった。
初めて出逢った女性と、これから起こり得る事をも予感させる時のような、、、
必ずそんなにおいのする女性はいるものだ。
けしてビジュアル的なものではない、、、
その女性の内面的なものでもない、、、
現実的なものでもない、、、
何かそんなにおいに惹かれる時、、、
そんな出逢いが美しいと思う。
オンドマルトノとの出逢いもそんなものだった。
それからというものオンドマルトノを分解したり、組み立てたり、作ったり、、、
これまでは、がきの頃よく真空管ラジオやテレビをいじくっていた時となんら変わりはない。
時にはオンドマルトノが生まれたパリに行き空気を吸い、道を歩き、モリスマルトノの息子ジャンルイと会い話をしたりもした。頑固で神経質なところもあるがいたって紳士的な穏やかなおじいちゃんだ。
ジャンルイが言った。(Nao,もうそんな真空管の古い楽器にこだわって研究したって意味がないよ、デジタルを研究した方がいいよ、父は散々真空管に悩まされ結局成功しなかったんだから、、、だから今こうしてデジタルがあるのさ!)
音楽を学んできた訳でもない、楽器も作った事もない俺には、まずモリスマルトノが作った真空管のアナログオンドマルトノを研究する必要があった。
なにより、昔から真空管やトランジスターになれ親しんだ俺にはデジタルが嫌いだったから、、、

2008.美道

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やっとここに来て思う、
美術を学んできた訳じゃなければ、彫刻家を目指していた訳でもない。
しかし俺は作る、、、
工学や建築を学んできた訳じゃなければ、設計家を目指していた訳でもない。
しかし俺は作る、、、
音楽を学んできた訳じゃなければ、音楽家を目指していた訳でもない。
しかし俺は作る、、、
これまで何十年もこうやって作りつずけてきた後ろにはいっぱいの怒りがあった。
現実や社会、人間へも、、、それが俺を動かし走りつずけさせてきた原動力なのはまちがわない。
怒りがあるうちは自分が未熟な証拠、できる奴は穏やかでたんたんとして、自信に満ちている。こんなこと言うようではまだまだ自分かっこ悪くてしかたがない!
しかし、いったい何なのだろう?、、、芸術とは、、、
俺のTeacherであるインドのババール氏は自分の目を指差して(私の目はここにはない、、、私の目は心にあり、天にある。いつも心から目を見開いてすべてを見ている。ある時は空にある天から見ている、、、)と、けして人を見下しているのではない優しい目をして、、、
(人間の顔にあるその目で見ているのはいつも現実と社会だけで醜く汚い、、、そこからは何も新しく美しいものは生まれない!)とも、、、
理想と現実は誰でもある。その理想と現実の狭間をどう折り合いつけるかで誰もがもがき苦しむ、、、苦しんだあげくそれに負けないで作り上げたものは美しい。その時初めて作にすべてがうつりだされているものだから、、、
たとえば、宮脇愛子の作品。
うつろひを初めて見た時は衝撃的だった。そこにはすべてがあった。美しさ、やさしさ、繊細さ、技、そして現実もそこには見えた。美しさは視感的、やさしさは内面的、繊細さ、技は技術的、現実は現実、、、
そう、これらすべてがあいまってできた作はすべてけして視感的だけじゃない美しさがある。それは人間の心の目をもそこに写し出す鏡のようにきらきらしていて美しい。
そんなものが芸術とでも言うのであろう。それを見る側、感じる側もまた芸術であろうとも、、、
よく巷で作品の話や、見せたりして話をする事があるが(いやー芸術の話はわからないなーなんでこんなもの作ったのかわからない!)なんてバッサリと考えないうちから切り捨てる奴らにがっかりさせられる事がある。わからないのではなくわかろうとしないのではないか?視感的だけで判断し心の目を開いていない、、、
見る事、考える事、感じる事も芸術に対して大切だなーと、、、
もしそれが人生や日々の生活に反映されれば尚ほんとに美しく幸せな人生になると、、、そして美しい社会にもなると、、、
武道、華道、茶道、、、それぞれ術の上には精神のあり方や生きる道がある。技術、うらずけ以前に生き方や心の真実性がとわれ、その考え方、見方の重要性が精神鍛錬につながっている。
美しいものを美しくとらえ考える、作る、道。も又あると思う。
美道、BIDO-、、、
美道家 尾茂 直之としての初めての一年がはじまった。
美しく生きたい、、、

かしまの森美術館へようこそ

Kashimanomori art cube

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