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1991.春

1991年、春。
俺はいつものようにボンベイ(現ムンバイ)オペラハウスにあるパンチラットナビルでダイヤの買い付けをしていた。シッピング業務も終え1階にあるいつもの旅行エージェントからのアフリカ、ザイール(現コンゴ)行きのチケットを手にして夕方から現れる屋台の一つからパ二プリを口にほうばっていた。
ここは世界各国からダイヤモンドバイヤーが集まるダイヤモンド業者だけと言っていいほどのビルデイングだ。
俺は1階から18階までの業者を朝から晩まで駆け上り毎月100万ドル位の買い物して日本にある会社へExportしていた。
日本の会社は小さいものではあったがジュエリーのコストを下げるため、デザイン、製作加工、販売を自社でおこない、一貫した体制を作っていた。加工職人を確保するため、成田、御徒町、甲府に工場をわけている、、、職人はすべて韓国人で厳しい日本の入国審査からビザを取るための試行錯誤の結果だった。
毎月100万ドルほどのダイヤの輸入、ダイヤの少しのコスト差、輸入レートの変動にも大きく左右されるので、そんな事にも目をくばり尚もダイヤのコストを下げるためラフダイヤ(原石)を買い付けるためザイールにしばしば飛んでいた。
今回はなぜか、ボンベイ>アデイス(アデイスアべバ)>ナイロビ>キンシャサ(ザイールの首都)のルート。いつもはロンドンかパリ、時にはアムスだったがとにかくヨーロッパにトランジットしてのアフリカ入りだった。少し時間の余裕がありナイロビで遊びたかったからだ。
ケニヤの首都ナイロビはケープタウンにつぎ近代化した町で、デイスコやカジノもあり夜も天国、そこでひろった女の子と南へ行けばアフリカのカリブ海と呼ばれるすばらしいモンバサが待っていた。ここで2,3日滞在し、7時間ほどでキンシャサに入る。
空港ではいつもバンバが待っていた。彼は俺の案内人けん通訳、ザイールは政情不安で揺れ動きとても一人ではジャングルに入るには危険だった。ましてや言葉もわからなければ話にならない、10を越す言語とフランス語、、、彼はそれらをあやつり現地のダイヤ業者や政府にも精通していたため俺は重宝して使っていた。
そのころのザイールはモブツ大統領の統制下で独裁政治とでも言うべくすべての外とのラインを切断していたため電話が一切、国内通話すらできなかった。電話をする時はビザをとり隣の国コンゴへコンゴ川を船で渡り、町にある郵便局から電話をしなくてはいけない、
まさに電話をするのも1日仕事。。。そんな国ザイールでそんな思いをしてまで買い付けをしたダイヤをインドへ送りカッテイングして日本に輸入しても十分うまみがあった。
だが俺は、いろんな国に住みついたりしたけどここはなぜか好きになれない、、、仕事のため好きになろうと思い女の子もトライした。俺も男、現地の女性と出遭う事はそれ以上に現地の民族性、言語、情報などをつかみ取る事が数十倍早いから、、、
ジャネットジャクソン似の18歳の子、スワン、、、
彼女は俺がキンシャサで定宿にしていた町のはずれにあるゲストハウスに毎朝顔を出しに来た。(明日からジャングルに入るから少し帰ってこないよ。)と言うとその晩は家に帰らない事がしばしばあった。俺は彼女が何をしているのか、家があるのか、親がいるのか、はけして聞かなかった、、、
早いとここの国から抜け出してアニンがいるボコタ(コロンビアの首都)に帰りたかったから、、、付き合って1年半ほどになるアニンとはボコタの中心、闘牛場がある15階建てのマンション、テケンダマの最上階ペントハウスに住んでいた。2、3週間で仕事を済ませ5月20日の俺の誕生日には間に合う、一緒にバースデイーをしようと約束してたから、、、そのための、ボンベイ>アデイス>ナイロビ>キンシャサ、そしてアムス>ボコタのルートだったのに、、、

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