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2008.美道

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やっとここに来て思う、
美術を学んできた訳じゃなければ、彫刻家を目指していた訳でもない。
しかし俺は作る、、、
工学や建築を学んできた訳じゃなければ、設計家を目指していた訳でもない。
しかし俺は作る、、、
音楽を学んできた訳じゃなければ、音楽家を目指していた訳でもない。
しかし俺は作る、、、
これまで何十年もこうやって作りつずけてきた後ろにはいっぱいの怒りがあった。
現実や社会、人間へも、、、それが俺を動かし走りつずけさせてきた原動力なのはまちがわない。
怒りがあるうちは自分が未熟な証拠、できる奴は穏やかでたんたんとして、自信に満ちている。こんなこと言うようではまだまだ自分かっこ悪くてしかたがない!
しかし、いったい何なのだろう?、、、芸術とは、、、
俺のTeacherであるインドのババール氏は自分の目を指差して(私の目はここにはない、、、私の目は心にあり、天にある。いつも心から目を見開いてすべてを見ている。ある時は空にある天から見ている、、、)と、けして人を見下しているのではない優しい目をして、、、
(人間の顔にあるその目で見ているのはいつも現実と社会だけで醜く汚い、、、そこからは何も新しく美しいものは生まれない!)とも、、、
理想と現実は誰でもある。その理想と現実の狭間をどう折り合いつけるかで誰もがもがき苦しむ、、、苦しんだあげくそれに負けないで作り上げたものは美しい。その時初めて作にすべてがうつりだされているものだから、、、
たとえば、宮脇愛子の作品。
うつろひを初めて見た時は衝撃的だった。そこにはすべてがあった。美しさ、やさしさ、繊細さ、技、そして現実もそこには見えた。美しさは視感的、やさしさは内面的、繊細さ、技は技術的、現実は現実、、、
そう、これらすべてがあいまってできた作はすべてけして視感的だけじゃない美しさがある。それは人間の心の目をもそこに写し出す鏡のようにきらきらしていて美しい。
そんなものが芸術とでも言うのであろう。それを見る側、感じる側もまた芸術であろうとも、、、
よく巷で作品の話や、見せたりして話をする事があるが(いやー芸術の話はわからないなーなんでこんなもの作ったのかわからない!)なんてバッサリと考えないうちから切り捨てる奴らにがっかりさせられる事がある。わからないのではなくわかろうとしないのではないか?視感的だけで判断し心の目を開いていない、、、
見る事、考える事、感じる事も芸術に対して大切だなーと、、、
もしそれが人生や日々の生活に反映されれば尚ほんとに美しく幸せな人生になると、、、そして美しい社会にもなると、、、
武道、華道、茶道、、、それぞれ術の上には精神のあり方や生きる道がある。技術、うらずけ以前に生き方や心の真実性がとわれ、その考え方、見方の重要性が精神鍛錬につながっている。
美しいものを美しくとらえ考える、作る、道。も又あると思う。
美道、BIDO-、、、
美道家 尾茂 直之としての初めての一年がはじまった。
美しく生きたい、、、

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